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乾杯は地元の酒で

第3回 住居革命で、風土と触れ合いを取り戻したい

建築家・都市プランナー 星田逸郎さん

地元を愛し、地元で活躍する方々のところへお邪魔し、地元への思い、そしてお酒に関することを、あれこれ伺うコーナー「乾杯は【地元の酒】で!」。第3回目の登場は、三宅正弘さんから紹介された、建築家の星田逸郎さん。住居を単なる商品ではなく、風土や環境、地域と繋がる豊かな空間にするため、日々走り回っています。

星田逸郎(ほしだ いつろう)さん

1958年大阪府生まれ。神戸大学環境計画学科卒業。(株)現代計画研究所を経て、2001年(株)星田逸郎空間都市研究所を設立。
キャナルタウン兵庫のアーバンデザイン委員会や武庫川団地再生マスタープランに携わる一方で、アーバンデザイン・タウンデザインの視点から民間の住宅地設計や環境デザインまで幅広く手掛ける。
現在、神戸松蔭女子学院大学非常勤講師(2009)。京都造形芸術大学環境デザイン学科非常勤講師(2001~2008)。猪名川町在住。

地域資源の御影石を街のテーマに

山手幹線芦屋川工事で出てきた御影石。<br>トラック約200台を2010年2月末まで潮芦屋地区に保管中。
山手幹線芦屋川工事で出てきた御影石。
トラック約200台を2010年2月末まで潮芦屋地区に保管中。
――前回このコーナーに登場の三宅さんとは、「石の銀行」繋がりということですが。

数年前、敷地の細分化で樹木の伐採が進んでいる甲陽園目神山の「緑のガイドライン」をつくるために、まちづくりコンサルタントの後藤祐介さんに協力を依頼されました。緑化保存のために緑地率を決めますが、緑だけでなく石も大切な自然だという考えを、私はそこに盛り込んでもらったのです。
六甲山麓周辺には多くの御影石が眠っていて、工事をするとゴロゴロ出てきます。それが廃棄処分される前に手に入れたくて走り回っていたところ、山手幹線工事で掘り起こした芦屋川から、御影石の転石が大量に出てきたと聞き、廃棄処分するために運ばれ放置されている芦屋浜まで見に行って腰を抜かしました。見渡す限り、天然の御影石だったんです。もったいない事に、最初に出てきた転石はほとんど埋めて処分されてしまいましたが、次に掘り出された時に、廃棄は2010年の2月まで待って頂き。引き取り手がなければ、処分に責任を持つという条件で、ほしい人を募って阪神間に石を戻していくプロジェクトを始めました。それを通して後藤さん、私、そしてデザイナーの坂田登さんと、石が大好きという武庫川女子大の三宅正弘さんとが出会い、「石の銀行」を設立しました。石の需給をマッチングして、地域資源を活かし景観へ寄与する事業です。
星田さんのコーディネートにより、相互関係の配慮で各家からの眺望が最大限に確保されている「苦楽園二番町プロジェクト」。
星田さんのコーディネートにより、相互関係の配慮で各家からの眺望が最大限に確保されている「苦楽園二番町プロジェクト」。
――地域資源を活かした都市計画を提唱している星田さんが、現在コーディネータをしている苦楽園二番町プロジェクトでも、その御影石を石垣や駐車場の石組みなどに、活用しているんですね。

苦楽園二番町は、六甲山の山並みと大阪湾を一望できる、すばらしい場所です。この自然風土とモダンな土地柄を調和させる街づくりのコンダクターを依頼され、関西を代表する優秀で個性豊かな建築家と一緒に、美しい住宅を設計していますが、品格ある苦楽園らしさを醸し出すため、街のテーマの1つを地元産の「御影石」としました。住む人が自由に家をデザインして建てる宅地分譲ですが、前庭や奥庭、ウォールなどに御影石を活用していただくことで、色や雰囲気が共有され街全体が連続的で調和の取れた、独自性のある景観になっていきます。
苦楽園二番町プロジェクトで作業をする職人さん。「自然の原理によって石を積む作業は、充実感を伴う」という。
苦楽園二番町プロジェクトで作業をする職人さん。「自然の原理によって石を積む作業は、充実感を伴う」という。
――石組みは、技術的に難しいのではないですか?

時間と心と手間、この3つをかければ、実はそんなに経験の無い人でもできる作業なんですよ。別の地域で設計させていただいた住宅では、ご自分の庭の石積みや舗装を、施主さん自らの手で長い時間をかけて作り続けている例もあります。コストダウンばかりが重視される風潮が、職人さんを育ててこなかったという経緯があるのですが、実際に作業に入ってみれば、現場の職人さんはとても楽しそうに石を組んでいて、そんな手作業の温かみを感じさせる街並みになっています。

美術部の仲間と六甲の居酒屋で痛飲

個人が目立つ頂上の仕事より、裾野で山を動かすような革命的な活動にロマンを感じるんです<br>
個人が目立つ頂上の仕事より、裾野で山を動かすような革命的な活動にロマンを感じるんです
――ところで、お酒にまつわる話を聞かせてください。星田さんは、おしゃれなバーが似合いそうですが。

お付き合いをする相手の方によっては、もちろん素敵なお店にも行きますが、私のルーツは父が和歌山、母が高知、育ったのが大阪南部なので、根は土くさいんですよ(笑)。美術が好きだったのですが、当時は偏差値と名前で大学を選ぶ風潮でもあり、神戸大学の「環境計画学科」という、何となくロマンと社会参与が感じられた名称の学科を選びました。数年後、環境計画学科は名称変更されたので、入学年度がずれていたら、私は今この仕事をしていないでしょうね。
地域空間という概念は、ゼミの重村力先生から学びました。初めて与えられた課題が「酒蔵を再生したコミュニティセンター」だったので、頻繁に灘五郎の酒蔵を歩き回り、試飲もさせていただいたんですよ。
適当主義の学生で学業はそこそこに、美術部の仲間とJR六甲道周辺で本当によく飲みました。お世話になっていた居酒屋が火事で焼けた時は、部員のみんなで再建の寄付を募った思い出もあります。
私より10歳ほど年上の団塊の世代は、アメリカの影響なのか、村上春樹に代表されるようにおしゃれなバーが文化になっていますが、我々は小学生時代、「あしたのジョー」や「天才バカボン」といった下町マンガで育った世代で、空き地の土管がドラマチックだと感じるんですよ。

――では、大学卒業直後から、まちづくりの方向に?

いえ、適当主義ですから(笑)ろくに就職活動もせずに、卒業間際にまだ募集していた設計事務所に入社しました。入ったところは、建築模型も作らずに仕事を進める事務所で、住宅の空間イメージを共有しない作業内容が信じられなかったのですが、図面の引き方だけは学ばせてもらいました。結局、考え方が自分とあまりにも違うので3年で辞めてブラブラしていました。その時に友達がバイトに誘ってくれたのが、現代計画研究所でした。住宅で都市空間をつくる研究をされている、所長の藤本昌也先生と、現在は関西大学の先生である江川直樹さんとの出会いは、大きかったですね。約16年間の勤務で数々のまちづくりに携わり、様々な賞も頂きました。

歴史的遺産を取り込んだ再開発

震災後に星田さんがデザインした街路の石畳は<br>今や岡本商店街のおしゃれな代名詞に。<br>
震災後に星田さんがデザインした街路の石畳は
今や岡本商店街のおしゃれな代名詞に。
――現代計画研究所の時から、2001年に星田逸郎空間都市研究所を設立された後も変わらずに、個人の住宅デザインから、地区のまちづくり、マンションの再生まで、実に様々なことを担当されています。

石畳が街の特徴になっている、阪急岡本駅からJR摂津本山駅までの岡本商店街街路デザインも、街づくりは後藤さんで、設計は私たちが担当しました。約10年前はコストの理由から地元産の御影石という選択肢は無く、中国産を使っています。「さくら御影」という意味では共通ですが。工事で掘り起こされた芦屋川から御影石がゴロゴロ出ている今でしたら、また街の色は少し違ったかも知れないですね。
震災後の再開発で、街が別物になってしまった例は多くありますが、JR兵庫駅前のキャナルタウンでは、兵庫運河とレンガ倉庫という歴史的遺産をテーマ素材として街に取り込み、やすらぎと潤いを与える空間をデザインしました。
阪神新在家駅前の住宅街「カラーズ神戸」では、街に「間」をつくって陽や風の通り道を生み出すことを提案。道路側の建物のラインをあえて揃えず、また庭やテラスなどは、隣り合う住戸と緑を共有して広々と見せるなど、個性と街全体のバランスを追求しました。

――UR都市機構が募集していた、堺市の向ヶ丘第一団地の再生共同研究者に選ばれて、現在試験施工が始まっています。

昭和40~50年代に大量に建てられた団地を、取り壊して建て直すのではなく、リノベーション(大規模改修)を行うのが最近の主流になっています。ところが、日本の団地再生はエコやバリアフリー等の部分的な技術にばかり目が行き、人が前向きに暮らすための空間だという発想が無いように感じます。
向ヶ丘第一団地ストック再生実証試験では、建物内に「露地廊下」や「南縁側廊下」、「街かどテラス」といった仕掛けを設けるなど、多様な世代が交流できるスペースを提案。外観デザインもハコ型ではなく、勾配屋根を設置し、屋上緑化を設けるなど、自分の部屋だけでなく団地全体を住空間として捉えてデザインしています。この研究は、今後たくさんの団地再生に有効利用されるに違いありません。

――住居がコミュニケーションをつくるという考え方ですね。

 かつての日本の伝統的な露地や縁側は、ご近所との適度な触れ合い空間で、それが人間形成の潜在的な教育になっていたと思います。ところが、高度成長期以降コストが優先されるようになり、価格を抑えた住宅や団地が登場し、細やかな空間の仕組みが失われてしまいました。この数十年の間に、人間の環境は場所性をどんどん無くして大地から引き離され、自分がどこに生きているのか分からない、不安な根なし草的な文化が広がったと感じます。
けれど、それを回復する可能性はまだ充分ある。未来の子どもたちのためにも、住居を単なるハコではなく、風土や環境と豊かに溶け合う個性ある空間に取り戻したい。私の住宅革命がきっと世の中を変えると信じて、ボランティアで毎日走り回っているんです。建築家は、自画自賛でないとやってられませんから(笑)。


2009年10月掲載